酒井誠「草創期の日中友好協会についてーー東西冷戦の狭間で上げた産声」(『中国研究月報』第80巻第1号、2026年4月)を読んだ。
著者は公益社団法人日中友好協会で事務局長を務めた人物。1947年生まれで、1965年に都内の高校を卒業した後、北京に留学したという。国交正常化前の中国との関わり方としては珍しい、また文化大革命直前の渡航であったことを考えても稀有な存在といえるかもしれない。1972年から東京都日中友好協会事務局長を務め、のちに全国本部の事務局長、常務理事にもなっている。
※以上の情報は、酒井誠『一共産主義者の星屑ーー酒井定吉とその時代』(2024年、知道出版)の「著者プロフィール」より。
日中友好協会の結成背景や草創期の活動については、大まかに知られているものの、詳細な経緯や前身母体等については、詳細に伝えられることはない。上述の論考はその検討のきっかけを示唆するものだった。
日中友好協会は1950年10月1日に正式結成されたが、前年の1949年10月10日に準備会が発足している。同年10月1日は中華人民共和国が成立した年であり、その祝賀を兼ねての発足であった。
しかし、その発足経緯は1949年2月に遡る。
東京の日本クラブという場所で、中国研究所、民主主義擁護同盟、華僑総会の共催で懇談会が開かれ、そこで「中日親善協会」発足が提案されたという。その名称は、のちに「日中友好協会」と改められたが、それは同協会準備会の発足に関連して、実藤恵秀の提案によるものであったという(社団法人日中友好協会編『日中友好運動五十年』2000年、東方書店、p12)。
中国研究所(中研)といえば、日本の敗戦後まもない1946年1月15日に発足した学術団体である。プロレタリア文学運動など、戦前に社会主義運動や共産主義活動に参加していた人物が多く含まれていた一方で、戦前の反ファシズム統一戦線を引き継ぐ性格もあり、マルクス主義に限らず、平和主義、民主主義を支持する研究者も加わっていた(小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』2021年、中央公論新社p.73)。同時に、「中国研究所設立趣意書」に「深き反省はこれまで軍国主義者達によって教へこまれてきた中国に対する誤れる優越感を払拭する許りでなく、却って国民をして日本の民主々義建設について中国に学ぶ態度をとらしめるであらう」というように、戦前の中国研究における態度を教訓とする姿勢が根幹にある。
民主主義擁護同盟(民擁同)は、1948年8月に正式発足した団体である。GHQの占領統治方針転換を背景に、「民主民族戦線」を提唱した日本共産党が主導し、社会党、労組団体との共同を画策したものであった。
中研と民擁同は、当時同じビルに事務所を構えており、相互に行き来する関係であった。発足後の民擁同の活動には平和擁護運動への参加も重要な柱として掲げられていたが、その中心となった人物に中研の初代所長であった平野義太郎や社会党の平和運動家であった大山郁夫がいる。民擁同のメンバーでは、日本共産党では野坂参三、社会党では佐々木良策、その他堀真琴、宮崎幸一郎、鹿地亘、美作太郎、兼岩伝一といった名前が見られる。
中研の理事であった米沢秀夫によれば、この懇談会では、のちの「中日貿易促進会」の提案もされたという。つまり、日中友好協会、中日貿易促進会は、ほぼ同時に構想が上がり、そのきっかけは中研と民擁同、華僑総会の共同によるものであった。そして、その運動を先にリードしたのは貿易運動である。1949年2月といえば、中国人民解放軍が北京入城した直後であり、国共内戦の大勢が日本にも伝えられた時期である。中国では、この頃からすでに対外貿易の推進の方針を決定していた。同年3月には天津に対外貿易組織を設置し、新政治協商会議でも貿易推進の方針が確認された。日本における民間の日中貿易運動とそれに続く友好協会の発足は、中国における国共内戦の趨勢を見定める形で推進されたといえる。
その後、1949年5月から6月にかけ、中日貿易促進会、中日貿易促進議員連盟、中日貿易協会が相次いで発足した。中日貿易促進会は、中小企業を中心とする貿易業者の集まりであったが、その動向を支持的に結びつけることを意図し、中日貿易促進会が発足した。そして、左翼革新系の政治イデオロギーから距離を取る形ので中日貿易協会が後発したという流れであった。
1949年10月1日、中華人民共和国が成立すると、直後に日中友好協会準備会が発足した。翌年1月には発起人総会が開かれ、ここで団体の正式名称や活動方針が明示されることになる。機関紙『日本と中国』創刊は1950年2月である。
興味深いのは、その後1950年10月1日の正式結成までの経過である。酒井論文と同時掲載された高綱博文『敗戦直後における中日文化交流運動についてーー中日文化研究所の活動を中心に』では、1946年5月に東京に創設された中日文化研究所(中文研)について言及されている。中文研は上海にいた日本人共産主義者が、郭沫若その他の意向を受け、日本に創設した交流機関であった。終戦直後ということを考えれば、中研とともに、戦後最も早い時期に生まれた日中団体の一つである。日中友好協会結成に至る過程では、当然、中研とともに中文研の主要メンバーも加わっていた。前述の発起人総会と『日本と中国』創刊号にも、中文研理事長の菊地三郎の名前がある。しかし高綱によれば、中文研はその後内紛に陥り、主要な役員が日中友好協会の専従となったものの、菊地ら一部は中文研に残り、日中友好協会とは別の路線を行くこととなった。
その背景には、いうまでもなく1950年6月の「五十年問題」があった。1950年1月、コミンフォルムが「日本の情勢について」を発表、日本共産党および野坂参三の「平和革命論」を批判し、日本共産党内部の党内分裂をきたした事件である。日本共産党はコミンフォルムの批判を受け入れた「所感派」(徳田球一・野坂参三)と国際派(宮本顕治)に分裂した。元々も共産主義者を中心に発足した中文研にもその余波が及んだと考えられるというものである。
そこから先、日中友好協会の編成にどのような影響があったのかは、核心に触れるものであり、研究の余地がある部分である。以上のような流れを汲んだ場合、1950年の日中友好協会正式結成時において日本共産党の影響はどうであったのか、そもそも母体たる民擁同も日本共産党が主導したとはいえ、発足経過では社会党の拒否に遭うなど、団体として一枚岩ではなかった。日中友好協会の初代理事長はキリスト教徒であり少なくとも表面上は党派と距離のあった内山完造であったし、主要なメンバーには社会党や共産党など様々で、文化人も数多く含まれていた。結成までの経過には、日中友好協会が「超党派」として生まれたヒントが隠されていそうではある。
キーワード:平和擁護、民主民族戦線
民擁同に関連する資料メモ:
『アカハタ』(新聞)
『社会新聞』(新聞)
労働省編『資料労働運動史』1948年、p.527
